1,事実を通して何を訴えるのか
 自分史は事実であり、フィクションではありません。しかし、数十年に及ぶ人生を数百枚程度の原稿用紙に全部書き記すには無理があります。つまり、自分の生き方、来し方を通じて何を読者に訴えたいのか、伝えたいのかという「テーマ」が必要となってきます。
 テーマを頂点として話は進んでいきます。その他の部分はたどり着くまでの脚色でしかありません。「テーマは山の頂上であり、執筆とはそこにたどり着くまでの登山のようだ」という言葉もあります。たとえ、10ページ程度の掌編でも数百枚に渡る長編でもテーマ自体はひとつです。
 そして漠然とした言葉よりもより具体性を持たせた方が表現はしやすくなります。「愛」や「人生」というものよりも「人間愛」や「わたしの人生」、もっと突き詰めて「わたしが思い出の人たちに送った愛情」とか「わたしが長い入院生活から得た人生感」と言う風にです。前者であれば、どのような愛情を送り、送った人からどのような反応を受け、そしてどのような結果が生まれ、そして作者自身はどのような考えを持つに至り、今後どうするか、そして多くの人に何を知り、感じて欲しいかを事実に基づき記す。
 過ぎ去りし日々の中で感じ得たもの、誰かに是非とも知って欲しいもの。その一つだけを選択し、言葉を紡いで下さい。
 

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2,記録性と事実の選択
 執筆の動機は人様々だと思います。希有な人生を歩んでこられた方、非常に貴重な体験をされた方。ただ、その経験が果たして本当にまれであるのか、検証する必要があります。
 人には誰しも自己愛と自己顕示欲が存在します。それ故、自分の苦労や楽しみが他の誰かにも存在する可能性があるという事実を見失いがちです。極端な場合、テーマに通じない事柄は思い切って削除するという勇気も必要となるでしょう。
 膨大な記録と事実の中でテーマに沿ったものだけを選び出し、文章に仕上げていく。これがおろそかだと輪郭のぼやけた、一体何を言いたいのか分からないものになってしまいます。
 しかしながら、誰もが思い、感じるであろうこと、大多数が経験したことを記し評判を得る書籍も少なくありません。ただ、その場合は人と違った視点が必要となります。
「皆はこう思うであろうがわたしは違う」とか「大勢の人はこうだったがわたしは違った」という示し方です。
 特に悲しみの体験談は選択に注意を払う必要があります。身近な人の死は誰でも悲しいものです。しかし、生きながらえていく以上、誰かの死は必ず受け入れなければなりません。その誰かが、特に素晴らしい功績を残したとか、死を迎えるに当たって特別な理由があったとかが伝える目的であり、「死」そのものはなり得ません。
 ペット情報誌の投稿欄に送られてくる手紙は、そのほとんどが愛するワンちゃんやニャンちゃんを亡くした内容です。飼い主は家族同然である彼、彼女を失った悲しみに暮れ、誰かに知って欲しいのでしょうが、基本的に動物は人間よりも短命です。つまり、飼い主にとって自分より先にペットが寿命を終えるのは当たり前のことです。当たり前のことを当たり前に書いても、同意を得られるだけで興味を持ってもらうことはできません。
 そういった感情の共有よりも行為や結果に対する具体的なノウハウの方が読者の興味を惹き付けることはたやすいようです。
 

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3,構成に山と谷を
 文章は短い方が人に分かりやすいものです。プロの作家は規定枚数の数倍を記し、そこから必要な部分だけを選択するという作業を行います。たとえ数百枚以上の長編小説でも実際に執筆できる分量は千枚以上にわたるといわれています。スピードと限られたスペースを要求される新聞記者は「消しゴムで記事を書く」というほど、大量の情報や資料内容を削除しています。
 ただ、短く凝縮された文章でも淡々と進められていては読者に飽きを与えてしまいます。明確に伝えたい頂点に至るまでのなだらかな谷。それをいくつかの章に分けることで全体を通してのメリハリが生まれてきます。長い人生の中で苦労した時期もあり、成功したときもある、楽しいときもあったし、全てを帳消しにする悲しいこともあった。ちょうどバイオリズムの曲線のような浮き沈み。これが「起承転結」、もしくは「序破急」と呼ばれる物です。
 こう示すと全体を4分割、もしくは3分割にするのかと考えがちですが、長さの割合でいうと、「起承転結」では「承」の最もボリュームを多く取り、その次が「起」、そして「転」。「結」は最も短く記し、読後感のスッキリ感を導きます。テレビドラマで例えると、「起」が第1話から3話、それに「承」の部分が続き、「転」が最終回。「結」は最終回のエンディングと言うことになります。ただし、長いからといって内容も濃くするわけではありません。最も内容を濃くするのは「転」の部分です。
 執筆は登山に似ていると前項で記しました。となると、いきなり山へ登るということは無謀ということになります。同じように、いきなり原稿用紙なりワープロに向かうよりも、ある程度の構成案が必要となります。これがネームとプロットと呼ばれるものです。
 プロットはテーマや登場人物、状況設定を記したものでネームはあらすじです。これらを作成することで全体を把握することができます。プロットを決め、ネームを記していくうちに必要、不必要が分かり、追加・削除を行います。山場をどこに持っていくか、この部分は簡単に記した方がいいか、などが見えてきます。
 その後に本格的な執筆に移るわけですが構成案は絶対的なものではありません、書き進めていくうちに新しい発見や忘れていたことが蘇ることもあります。行き詰まったり、思わぬ方向へ話が進むこともしばしばです。その時にはプロットの書き直しを試してみて下さい。迷ったときには原点に戻る。その辺りも登山に似ているかもしれません。

 

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4,感動を引き出す
 何を伝えるにしても感動が表現には求められます。それは何も涙を流すようなものである必要はありません。笑いでもいいし、納得でもいいわけです。
 状況設定や人物紹介は具体的であればさほど凝った表現は必要ありません。できるだけ読者に分かりやすい言葉と表現で記せば大丈夫です。そして、テーマに近づくにつれより詳しく、緻密に、言葉を選んで表現すれば感動は引き出せます。
 その際、決して主観に陥ることなく、客観的に話を進める必要があります。感動を生み出そうとして感情移入を図りすぎるばかりに読者を無視した表現が現れてしまう恐れがあります。
 良く見受けられるのが自慢話です。それが後に続くものであればいいのですが、「自分は名家の出身で幼い頃は神童と呼ばれ、長じて一流大学に進み、一流企業に就職した」ということばかりが長々と記されると読者の興味を殺ぐばかりか反感さえ買ってしまう恐れがあります。エリートコースを邁進した後に失敗をするとか、大きな事故や天災で没落するとか、そこから学び取ったものがテーマであるなら、ある程度の自慢も必要ですが、結果に至るまでの大部分を埋め尽くしてしまうようでは感心できません。
 反対に、苦労話ばかりを聞かされても読者は飽きてきます。逆に苦労を笑い飛ばすほどのバイタリティーが見えてくれば、心地よい読後感を引き出すことができます。
 自慢に似た表現として「専門用語を多用する」、「カタカナ言葉を多く使う」、「難解な言葉をちりばめる」というのがあります。
 学術誌のように同じ専門分野の読者を想定されているのなら別ですが、知識のない一般読者に業界用語や学術用語を示されても理解できません。また、ビジネス書に多いカタカナ言葉、「ユピキタス」、「オンデマンド」、「クライアント」、「オファー」などと書き並べられても、特に高齢の方が読み進めるのに困難を生じかねません。反対に知識や教養に自信のある高齢者がよく用いるのは「漢語」です。「刹那」、「畢竟」よりも「瞬間」、「結局」ではではダメなのか、「爾来三十年」より「それから30年」では意味が通じないのか。
 自分史であり、自分のことを書くのは当たり前です。しかし、自分は分かっていても第三者が知らないことの方が多いものです。記すときにはあくまでも読み手側の立場に立つことが重要です。それは状況や人物はもちろん、使う言葉も同じです。
 1000部の本を出せば1000人以上の目に触れる可能性があります。1000人相手の対話は困難でも本であればそれができるわけです。ただ、直接相手と接しないといっても1000人を想定し内容を作り上げなければなりません。そうでなければ感動はおろか、読んでもらうことすらできません。
 ただし、人ひとりの人生は、それがどのようなものであっても感動に値します。的確な表現さえできれば誰にでも泣き笑いを与えることは可能です。「わたしなんか」、「わたしよりも」という考えをまず捨てて下さい。そして、誰かに自分を話してみて下さい。それはお知り合いでもいいし、プロの編集者でも構いません。そこから感動は第一歩を踏み出します。
 

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